甘楽町&めがね橋
(2019/9/2撮影)
しばらくぶりの撮影でどこに行くか迷ったが、以前友人がHPで碓氷峠のめがね橋を撮影していたのを思い出した。しかしやや遠いのでめがね橋だけではもったいない。このとき別の友人から甘楽町に昔の街並みを保存している地区があるという情報を得た。早速調べてみると2か所は割合近く、しかもどちらも面白そうである。ということで撮影に出かけた。甘楽町小幡は織田信長の次男信雄が築いた城下町だそうだ。信雄は一時栃木の烏山にもいたそうだ。信雄については少しは知っていたが、こんな身近なところで関係があるとは思わなかった。甘楽町は昔の城下町の風情を残し、実に気持ちの良いところであった。一方のめがね橋はまさに明治の遺産、これを解体せずに残した先人の努力に敬意を表したい。
江戸時代の武家屋敷高橋家。現在も生活している。
門にはこんな飾り物が。建物にも同じようなものが飾ってあった。
塀の造りは時代を感じさせる。内側が有名な庭園であるが、見学場所は限られている。
松平家大奥の入り口。右奥の庭園も見学は限られている。
喰い違い郭。下級武士が上級武士に出会うのを避けるため隠れたともいわれている。
距離は短い。内側からも撮っておく。
小幡の中小路。なんとも落ち着く場所だ。
石垣を接写しておく。江戸時代の人も見たであろうと想像する。
松平家を南側から撮っておく。石垣が素敵だ。
さらに西側に歩くと楽山園入り口だ。織田宗家の幟旗が立っている。
楽山園は江戸時代初期に織田氏によって作られた小幡藩邸の庭園である。
再建された拾九間長屋には展示スペースがある。
内部の展示スペースにはジオラマも作られている。
井戸も再建されている。園内にいくつもあった。
からぼりである。右上に藩邸・御殿があったが、今は更地である。
腰掛茶屋(左)と梅の茶屋(右)。
腰掛茶屋越しに庭園を見下ろす。
梅の茶屋は藩主が休憩したり庭園を眺めたりしたところだ。
茶屋の内部に入ってみる。さすがに良い景色だ。
昆明池と中島、実によく整備されている。
南東庭園の泉水、江戸時代には塀で昆明池と区別されていたそうだ。
睡蓮がきれいであったので思わずパチリ。
旧小幡藩武家屋敷の松浦氏屋敷。
江戸時代後期の造りで甘楽町に寄贈され、復元整備され一般公開された。
雄川堰から導水した水が庭園の池にそそぐ。
街中の水の循環が実によく考えられている。
屋敷の内部から庭園を眺める。素晴らしい景色だ。
主屋は昭和53年まで住居・蚕室として使用されていたそうだ。
雄川堰である。街中いたるところにつながっている。
昔はここで家事や洗濯をしていたのであろう。
昔の街並みがいまだ残っている。
ここにも昔の建物が。現在も生活しているようだ。
手前は雑貨店か、奥は旅館である。
甘楽町歴史民俗資料館。大正15年組合製糸小幡組の繭倉庫として造られたものである。
小幡八幡宮。織田家3代目信昌の時代に創建された神社、織田家の守護神である。
入口には人気狛犬「困ったちゃん」がいる。
この表情には癒される。
拝殿の天井には龍が書かれている。
日曜日は一般公開されているようだが、この日は見ることはできなかった。
(拝殿前の解説書を複写)
拝殿側より上ってきた階段を見下ろす。
森の中に鎮座する神社は実に気持ちがよい。
甘楽町から車で30分ほど移動し旧道を上ると、めがね橋が見えてきた。
明治25年に完成したわが国最大の煉瓦づくりアーチ橋。
昭和38年新線開通に伴い廃線になった。
正式名称は碓氷第三橋梁である。
一時は解体する話もあったが、地元の人の働きかけで保存することになったそうだ。
真下から橋を見上げる。すばらしいつくりだ。
ここから階段を上ると橋の上に行くことができる。
橋の上に到着した。ここはアプトの道として遊歩道が整備されている。
めがね橋を見下ろす。明治の技術者に敬意を表する。
アプトの道にはトンネルがいくつも連なっている。
トンネルの中は照明もあり、安心して歩くことができる。
トンネルを抜けるとまたトンネルがいくつも連なっていた。
トンネルわきの煉瓦に目をやる。
時代を感じるとともにその技術の高さに感激する。
めがね橋の方に戻っていく。トンネルの中から見た景色もまた素敵だ。
今回はパソコンを変え、初めてのサイトの作成になった。
まだ慣れないところもあるが、技術の進歩はすさまじい。
雄川堰を作り、めがね橋を作り、さらに現在のパソコンへと技術はつながっている。
私はただ使っているだけだが、人間の知恵に思いをはせる。